無機質にアウトプット

読んだ本や観た映画の感想を書いていきます。

【読書メモ・感想】松久淳『走るやつなんて馬鹿だと思ってた』

普通の作家だったら、ここで素敵な人生訓を導き出すところだが、やっぱり、私の中にはそんな素敵なフレーズは、見当たらない。ただ走る。疲れるのに走る。時間を取られるのに走る。汗臭くなるのに走る。ただそれだけで、もはや走ることには目的も結果もない、効用や成果すらすでになくなっている。

 

走りたいという欲求ももはやないのに、それでも当たり前のように走っている気がする。ただたんに、やめられない。

松久淳『走るやつなんて馬鹿だと思ってた』より

 

松久 敦さんのエッセイ『走るやつなんて馬鹿だと思ってた』を読んだ。普段エッセイなんて読まないのだが、自身が2月末から最近週末にランニングを始めたこともあり、Kindle Unlimitedでタイトルに惹かれたので、手にとってみた次第だ。

 

自分の境遇にタイムリーにヒットしてたこともあり、すいすい読むことができた。 

走る奴なんて馬鹿だと思ってた

走る奴なんて馬鹿だと思ってた

  • 作者:松久 淳
  • 発売日: 2019/06/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

本の概要

なかなか挑戦的なタイトル。内容はタイトルのように思っていた著者が、どうしてランニングにハマっていったのかを自身のランニング記録とともに綴っていくエッセイとなっている。

 

冒頭の文が本書のあらすじを簡潔にまとめてくれているので、そのまま引用させてもらう。

本文で詳しく語っていますが、私は 10 代から 30 年以上、運動と名づくものはいっさい拒否、169センチ・52 キロというガリガリ虚弱体質で、完全文化系夜型生活を送ってきました。

 

40 歳のとき禁煙したら、今度はたった1カ月で 16 キロ激太り。171センチ・68 キロの軽メタボ体型になってしまいました。しかし完全文化系夜型生活は変わらず、毎晩(明け方まで)べろべろになるまで酒を浴びる不摂生極まれりな中年に成り果てました。

 

そんな私が、なぜ 45 歳のときに、意を決して走り始めたのか。最初は 50 メートルで足がもつれた軟弱ボディは、なぜ走ることに「はまった」のか。そしていつ、 10 キロ以上を平気で走れるようになったのか。そして挑んだフルマラソン。その結果は?

 

著者の紹介

著者は作家の松久敦さん。失礼ながら本書を手に取るまで存じ上げなかったのだが、2000年に『天国の本屋』という小説でブレイクしているらしく、2004年には竹内結子主演で映画化もしているようだ。

 

google画像検索でご本人の写真を見てみたものの、見たことあるような、ないようなであまりピンとは来なかった。

 

エッセイも多数書かれているようで、わたしは本書しか読んでないので他の作品ではどんなテイストで書いているかわからないのだが、少なくとも本書はくだけた語り口で読みやすい文体だった。文中にも度々自虐的に「初老の〜」という表現が用いられるが、いい意味でオジサンの文って感じ。ところどころのボケも多い。わたしは嫌いじゃなかったが、人によっては寒く感じる人もいるかもしれない。 

 

本書を一言でまとめると

結局、走る習慣が身についたからと言って健康になったり、生産性がグンと上がったり、人生が前向きになったりと巷のビジネス書で言われているような効用があるわけではない(個人差あり)それでも走ることは、辞められなくなるくらいハマってしまう。

 

読書メモ

以下は引用を交えつつ、気になった箇所をメモ。

 

 走る効用ってなんだろう?

人生はマラソンのようなもの、らしいが、私はそんなことをこれっぽっちも思ったことはない。

走っていると、無心になって心もリフレッシュするという言説もときおり耳に入ってくるが、そんなこともまったくない。

女性の足に目を奪われるし、日々のストレスを思い出しては「チッ」と舌打ちしてることもあるし、昔の恋愛をふと思い出して空を見上げてせつなくなることもあるし、帰ったら猫の毛づくろいしてやんなきゃなあとか、税理士さんに今月の書類明日には送らないとなどと現実的な予定を思いついてたりもする。

これは最近ランニングを始めたわたしも、めちゃくちゃ共感する。無心になるどころか色んな感情や思考が頭を駆け巡っていく。この間なんか『アベンジャーズ/エンドゲーム』を鑑賞し終えた次の朝に走ってたら、ラストシーンを思い出して普通に泣きながら走っていた。周りから見たら完全にヤバイやつである。

 

でも走ってるときはそれくらい、突拍子も脈絡もない気持ちが頭をグルグルしたりする。無心なんてとんでもない。でも終わってみると走り終わってみると、なんとも言えない達成感に満たされる。それがランニング。

 

じゃあなぜ走るのか?

しかし読めば読むほど、「薬物」という単語を「ランニング」に置き換えてもそのまま話が通じると思うのは私だけだろうか。 「『やせられる』『自信がつく』『充実感がある』『スカッとする』『元気がでる』といった誘い言葉についのせられ、危険なランニングとは知らずに手をだしてしまうケースもあるのです。遊び友達、昔の同級生、職場の仲間など、ちょっと見たところ、信頼のおける身近な人からすすめられ、いつのまにかランニングに染まってしまう場合もあります。」

 上記は本書の中の著者がやった、「薬物」のダメ!ゼッタイ!の警告文を「ランニング」に置き換えてみる試みの一節の一部引用。これには笑った。確かに。

 

実際これらの効果が得られるかは個人差があるんだろうけど、それでもランニングはやめられなくなるようだ。なぜか?それはきっとランニングが快感を与えてくれる習慣だからだろう。

 

わたしは結構習慣に関する本、通称、習慣本をよく読むのだが、共通して書かれてることが多いのが「脳はその習慣が快か不快かでしか判断できない」ということ。

 

脳からすれば、その行為が身体に良いとか、その人の成長につながるとかは一切興味ない。ただその行為が気持ち良いか?そうじゃないか?で習慣化されるかどうかが決まるらしい。

jokigen.hatenablog.com

別にこのエッセイで、そんな科学的な根拠に踏み込んでいるわけでは全く無いが、著者のランニングに対する思いの変遷とハマり具合を知っていくと、上記の科学的根拠は正しいんだなと思う。

 

「マラソンとは、コンディションやアクシデントも踏まえてが、結果」

何がサブ4だ、なんとか5時間超えずにすんだレベルじゃないか。しかしここで私は、身をもってこんなことを自覚したのである。 「マラソンとは、コンディションやアクシデントも踏まえてが、結果」

著者はランニングにハマるあまりフルマラソンにも挑戦していくのだが、その過程でとにかく故障が多い。このエッセイの半分は故障の話を占めるんじゃないかと思うくらいだ。

 

その故障の結果、大会で自身の能力どおりの結果が出せず悔しがるシーンが何回かあるのだが、最後の方で著者は上記のことに気づく。

 

これにはわたしもハッとさせられた。いや、わたしはまだフルマラソンに挑戦したわけではないのだが(走ったのは多分高校生のときが最後である)。著者はマジもんのランニング中毒者なので、故障しても騙し騙し走りに行って、結果悪化させることを何度も繰り返していた。そんな著者がここまで感じるほど成長するなんて……と、とても身勝手な感動を抱いてしまった。 

 

感想

全く走ることに興味なかった40代のおじさんが、どうして、どのようにランニングにハマっていったかが、飾らない本人の言葉で語られておりおもしろかった。著者自身が本書の中で自身のことを「団体行動ができない、凝り性のオタク気質」的な人間だと評しており、だからこそハマったと言っており、わたしも近いところがあるので共感できるところも多かった。

 

「皇居付近はランニングアプリのGPSが落ちる」陰謀論や映画『シン・ゴジラ』でゴジラが通過したルートをランニングする話は特におもしろかったな。

 

誰もが読んでもおもしろい内容、とは思わないが、ランニングに少しでも興味がある人なら読んでみてほしい。きっと走りたくなるはず。