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サラリーマンはどこで成果を感じるべきか? | 分業の弊害

先日社内で行われた、とあるプロジェクトの完了とその成果を報告する会に参加してきた。その時感じたことをつらつらと綴る。

 

結論だけ先に書いてしまうと、自分のやった仕事がどれだけ大きな仕事の一部だったか意識するのって難しいよね、って話。

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本題に入る前に前提を少し。
わたしの職業はシステムエンジニアで、入社して今年で5年目になる。

 

報告されたプロジェクトは約2年間にわたるシステム構築の案件で、わたしは立ち上げからリリースまで参画した。

 

うちの会社は約2年の教育とOJT期間みたいものがあるので、それ除くと今回のプロジェクトは、わたしがはじめて本格的に参加したプロジェクトになり、なかなか思い入れが深い。


前置きが長くなったが、本題に入ろう。

 

今回報告会のなかで、あらためて感じたのが「こんなに大きいプロジェクトだったんだなぁ」ってこと。もっと言えば「やってる時はここまで大きな仕事ってのは忘れてたなぁ」って感じだ。

 

成果を伝える場であるので、当然プロジェクトの規模や損益、収めたシステムの品質について報告する。

 

本案件は割と大きい規模で(といっても他の企業と比べたわけではないので、勝手に大きいと思っている)、例えば売り上げは億レベル。損益的にも悪くなく、品質も良いうえに特段大きな問題もなかった。

 

報告したプロジェクトマネージャーが社内のお偉いさまから褒められるてるのを見ると、「こんなに評価されるプロジェクトに自分も参画していたのか」と改めて思った。

 

ちなみにわたしはそのプロマネの補佐という立場だった。なので、別に報告された情報は今回はじめて知ったわけではない。

 

プロジェクトの進捗状況も品質も損益の変遷も常にウォッチできる状態だった。

 

なんなら受注に向けた見積資料を社内稟議に通すために整理もしたりもしてる。だから、売り上げ金額とか品質の良さに今更驚く理由は全くないのだが、実際のわたしは「おおー」って思ってた。

 

「おおー」と思いながら、わたしが思い出したのは山口周さんの『武器になる哲学』で紹介されていたスタンレー・ミルグラムの「アイヒマン実験」の話だった。

 

武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50

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  • 作者:山口 周
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/05/18
  • メディア: 単行本
 

 

話が逸れるが、ここで「アイヒマン実験」を簡単に説明しておこう。

 

被験者二人のうち、どちらか一人が「先生」役を、もう一人が「生徒」役をやってもらう。「生徒」役には問題が与えられ、間違えると別室にいる「先生」がスイッチを押し、「生徒」に電気ショックを与える、という実験である。

 

電気ショックは15ボルトから始まり、回数を追うごとに15ボルトずつ電圧が高くなる。

 

本実験の目的は、「先生役」がどこで電気ショックを与えるのを止めるか?というのを調べること。

 

当然、電圧が高くなってくると「生徒」もシャレにならず、インターフォンごしに「やめてくれ!もう無理だ!」と叫ぶようになる。345ボルトくらいになると、もはや声も聞こえなくなる。

 

しかし白衣を着た実験担当者は「数秒間待って返事がないなら、誤答とみなしスイッチを押せ」と指示する。

 

結果、40人の被験者のうち65%にあたる26人が返事もない、かなりヤバい状態であろう「生徒」に最高の450ボルトの電圧を与えたらしい。

 

実際は「生徒」役は実験担当側が用意したサクラであり、ほんとうに電気ショックが流れていたわけではない。あくまで実験を受けていたのは「先生」側のみである。

 

この実験から得るべき示唆は、人は責任を取る立場にいないと、その責任を他人に転嫁し、簡単に非人道的なことをしてしまうということ。

 

今回の実験で言えば「先生」役は「わたしは実験担当側に言われるがままにスイッチを押しただけだ」という思いのもと、電気ショックを与え続けたのだろう。

 

そして山口さんは、この実験に絡めてナチスホロコーストを紹介している。あの歴史的にも残虐な行為は「過度な分業体制」によって、責任転嫁がしやすい状況を実現しているというのだ。(この主張自体は政治哲学者のハンナ・アーレントのもの)

 

アーレントは「分業」という点に注目します。ユダヤ人の名簿作成から始まって、検挙、拘留、移送、処刑に及ぶまでのオペレーションを様々な人々が分担するため、システム全体の責任所在は曖昧になり、極めて責任転嫁のしやすい環境が生まれます。

 

「私は名簿を作っただけです」「あの時は誰もが協力していました」「私がどうしようと結果は変わりません」「殺していない、ただ移送列車の運転をしただけだ」……。

 

このオペレーションの構築に主導的役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、良心の呵責に苛まれることがないよう、できる限り責任が曖昧な分断化されたオペレーションを構築することを心がけた、と述懐しています。

ー山口周『武器になる哲学』より

 

だいぶ横道にそれたが話を戻そう。企業のシステム構築のプロジェクトとナチのホロコーストじゃレベル感が全然揃ってないが、分業によってその果てにある全体像がもたらす成果が見えにくいという点は一緒ではないか、と報告を聞きながらわたしは思った。


企業は責任転嫁しやすい状況を作ってるわけではなく、作業効率を考えてのことだが、結果的に「今自分がやっているタスクが最終的にどの程度、自社に、社会に、日本に貢献し、何をもたらしたのか?」はなかなかわかりづらい。

 

別に分業してるから、責任を持ってないというわけではない。「お客と期日までにきちんと認識合わせし、書面に起こすこと」「資料上の数字にミスがないこと」、「バグを作り込まないこと」など、みんな分けられた仕事に対して、それぞれきちんと責任は持っているはずだ。もちろんわたしも然り。

 

でも「じゃあこのプロジェクトであなたがやったことはなんですか?」と聞かれると「わたしは契約書をお客様と取り交わしただけです」「わたしは書類をまとめただけです」「わたしはあるモジュールを製造しただけです」ってなってしまう。

 

その「~しただけ」の積み重ねによって、お偉いさんから褒められるような成果が挙げられたのに、そのことを実感する機会はほとんどないし、多くの人は感じることができないのでは思う。

 

分業が悪いと思ってるわけではない。「サラリーマンは会社の歯車のひとつ」なんて喩えは古来からあるし、全然間違ってないと思う。

 

ただその歯車によって動く大きなカラクリがもたらす結果が、もう少し歯車ひとつひとつに伝わる仕組みがあったらなぁと。そんなことを感じた社内イベントでした。

 

まあそもそも出世したり、成功したりするビジネスマンはそういう「一歩先」まで日頃から意識してる人かもしれないけどね。